STORY

絶対にうまくいく——北の大地で挑む不動産業界の革新

祖父が築いた会社を、自分の手で守りたかった

物心ついた頃から、私の未来はもう決まっていました。
祖父が北海道旭川で一代で築き上げた杏栄中村建設の3代目として生まれた私にとって、家業を継ぐことは夢でも目標でもなく、——宿命——のような感覚でした。小学生の頃の文集に「将来の目標:社長」と書いたのも、誰かに言われたからではありません。ただ、まだ幼かったあの頃から、祖父が一生をかけて残してくれたものを、他の誰かの手に渡したくなかった。その一心でした。

高校進学の際も、家業のために建築学科のある地方の学校へと自ら望みました。しかし父は静かに首を振り「建築の知識は現場で身につけられる。旭川で商売をするなら、旭川で人脈を作ることの方が大切だ」と。当時は納得できなかった。でも今になれば、あの言葉の重さがよくわかります。地元の高校で出会った仲間たちは、今も私の財産です。

高校卒業後、大学を目指したものの入学したのは経理を学べる専門学校でした。「どんな会社にも経理はある」という考えで始めた簿記の勉強でしたが、帳簿の数字を追ううちに、商売の本質が見えてくるような感覚がありました。お金がどこから来て、どこへ流れるのか——世の中の仕組みがくっきり見えてくる。簿記が「面白くて仕方ない」と感じるのに、それほど時間はかかりませんでした。

半年で日商簿記1級を取得し、その勢いで税理士を目指しました。5科目中3科目を取得し、大原簿記専門学校の講師として社会人受験生を教えながら勉強を続けた日々——そこに父から届いたのが「そろそろ戻ってこい」という一言でした。33歳のことです。税理士試験は道半ばで終わりましたが、不思議と悔しさより「いよいよだ」という高揚感の方がずっと大きかった。宅建もすぐに取得し、講師時代に鍛えた「伝える力」と、簿記で磨いた「数字を読む目」を胸に、ついに家業の扉を開けました。

眠れない夜を越えて——崩壊寸前の会社を、立て直す

扉を開けてみると、会社の内側は想像以上に荒れていましたね(笑)。

今で言う「ブラック企業」そのもので、上司より先に帰れない空気、タバコの煙が漂うオフィス。父はほぼ姿を見せず、商工会の仕事や別会社の経営に追われていました。入社1年目で専務を任されたものの、実権は別の役員が握っていて、私はただ肩書きだけの存在でした。

不動産部に配属されてからは、買い取り再販を進めましたが、不良在庫が徐々に積み上がっていきました。銀行への返済を手形の書き換えで凌ぐ綱渡りの日々。そしてついに、事業の中心人物であった上司が「責任を取る」と言って突然去っていきました。その後も数名が立て続けに辞め、気づけば残ったのは営業1名・事務1名と私の家族だけ。不良在庫は11〜12棟、含み損は約2,000万円。それが入社3年目の、冷たい現実でした。

そんなどん底の中、何年も手がけていなかった宅地造成の案件が舞い込んできたのです。
設計会社の社長や担当者、土木屋さんに頭を下げながら、経験値がほぼゼロのところから独力で進めました。完成した宅地の販売には地元ハウスメーカー約10社を一堂に集めてプレゼンを実施。講師時代に鍛えた度胸と話術が、思わぬところで火を吹きました(笑)。結果、工事完了前に約8割の区画が売れ、残りも1年以内に完売。宅地造成で生まれた利益約3,000万円で不良在庫を一掃し、崩壊寸前だった会社に息を吹き返させました。

その後37歳で代表取締役に就任しましたが、その後も裁判沙汰、社員のトラブル——40代前半は、目を閉じても眠れない夜が幾度もありました。「うちはもうだめかもしれない」そう思う夜もあった。それでも、逃げなかった。今振り返れば、あの暗い時代があったからこそ、今の自分がある。そう、心から思っています。

「さあ、次は何をしよう」——REMAXとの出会い

経営が落ち着きを取り戻した頃、太陽光発電事業に参入し、安定したストック収入が生まれました。「よほど下手を打たない限り、20年は潰れない」——そう思えた瞬間、長い間ずっと「なんとかしなければ」という重さの中で走り続けてきた私の中に、ようやく前向きな問いが生まれたんです。「さあ、次は何をしよう」と。

REMAXの話を持ってきてくれたのは、旧知の仲である当時の北海道リージョンオーナーでした。「絶対、文ちゃんが好きな話だから」と。話を聞いた瞬間、「めっちゃいいじゃん」と即答していました(笑)。オフィス加盟に迷いは一切なかったですね。
当時、不動産業界の古い仕組みに限界を感じていた私にとって、エージェントが自律的に動き、頑張った分だけ報酬が返ってくるこのモデルは、かつて共同出資していた別事業の仕組みと重なり、すっと腑に落ちました。これを不動産でやればいい——それだけでした。

ちょうどその頃、札幌への進出も考えていたのでタイミングも重なりました。
旭川の建設会社のブランドで札幌に乗り込んでも、知名度には限界がある。でもREMAXというグローバルブランドと共に、エージェントが自立して動く仕組みであれば、人のコントロールに苦しんできた私にとっても、新しいスタートが切れると感じたのです。

そして決定打になったのは、アメリカに住む姉の一言でした。
「REMAXって知ってる?」と聞くと、「私がこれまで不動産の相談をしたのは全部REMAXよ。こっちでは誰もが知ってる有名なブランドだよ」と。日本では誰も知らないのに、アメリカでは業界の代名詞。これほどのブランドが、まだ北海道では開拓されていない。ファーストペンギンになれる——そのワクワク感が、私の背中を強く押しました。

ぶつかって、ぶつかって、それでも信じる——人と育つオフィスへ

2018年、REMAX KYOUEIとして、北海道の地に旗を立てました。

立ち上げ当初は固定費を抑えるため、札幌の自社の建設事務所の一角からスタートしました。しかし、エージェントの皆さんが誇りを持って働ける環境でなければ意味がないと感じ、事務所を分け、札幌駅と大通りの中間という一等地へオフィスを移転しました。気持ちよく働いてもらうために、自分が一番いいと思える場所を選ぶ——そこは拘りました。

オープンしてからしばらくは、エージェントとの向き合い方も試行錯誤の連続でした。あるエージェントとは、何度も真正面からぶつかりました。居酒屋でテーブルを挟んで意見をぶつけ合ったこともある。それでも諦めなかったのは、その人の目の奥に本気が見えたからです。

そんな彼は今、面接もフォローも任せられる、オフィスになくてはならない存在になっています。「僕が育てた」というより「自分で学び取った」という感じですね。その成長が、心から誇らしい。彼の最大の強みは、何よりも「REMAXが大好き」だということ。ブランドへの深い愛が、自ら学び続ける原動力になる——そのことを、彼の姿が教えてくれました。

私がエージェントに求めるのは、経験の有無よりも「プロとしての意識」です。生活のために副業をしながらでも構いません。ただ、不動産エージェントとして全力で向き合う覚悟があるか、そして学び続けられるか——そこに妥協はありません。エージェントとオーナーは「ビジネスパートナー」。サポートは惜しまないけれど、ルールはきちんと守ってもらう。その対等な関係の中にこそ、本物のプロフェッショナルとしての誇りが育まれると、深く信じています。

札幌から北海道全体へ——「絶対うまくいく」と、信じ続けること

REMAXを始めてから今日まで、「やめよう」と思ったことは一度もありません。進捗が遅れたとすれば、それは私自身の問題です。REMAXの仕組みそのものが間違っているとは、ただの一度も感じたことがない。だから「絶対うまくいく」という確信が揺らいだことも、ありませんでした。

今年、北海道全体にREMAXの文化を広めるため、北海道リージョンオーナーに就任しました。実は、ずっとやりたかった。大きなチャレンジではあるけれど、自分のオフィスを着実に育て続けてきた今、そのタイミングが満を持してやってきた——そう感じています。

就任後、アメリカ本部のリージョン研修に参加して、目が覚める思いがしました。海外では1つのオフィスに50〜100人のエージェントがいることも珍しくないと知り、「北海道に20店舗」という自分が長年抱いてきた目標が、いかに小さかったかに気づかされたのです。もっと大きく描いていい——REMAXには、既存のFCチェーンを超えて全国的なブランドになるポテンシャルがある、と。

北海道では今、他社のエージェントネットワークとも手を結びながら、業界を横断した勉強会や情報交換の場を育てています。競い合うのではなく、北海道全体のエージェントビジネスを共に盛り上げていきたい。そうした繋がりがやがて大きなプロジェクトへと育ち、地域全体の不動産の質を高めていく——そんなビジョンが、今はっきりと私の目の前に見えています。

建設会社の3代目として生まれ、会社の危機を乗り越え、そしてREMAXへ。振り返れば、すべての経験が今に繋がっています。講師として培った「伝える力」、存続の危機を越えた「諦めない姿勢」、そして個性豊かなエージェントたちの「努力と成長」——それらがすべて、REMAX KYOUEIというオフィスの中に、確かに生きています。

REMAXの未来は、必ず素晴らしいものになる。その確信だけは、これからも決して変わりません。

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