中古物件に挑んだ24歳、初めて「自分の力で売った」感動働き始めたころはゲーム機のリースをしていました。しかし当時の業界は少しグレーで、ずっとこのまま続けても先が見えない気がして、思い切って業界から足を洗いました。そこからしばらくは、なんとなく時間をつぶすような生活をしていたんですが、さすがに「このままじゃ生活できへんな」と思い始めて。明石から大阪へ移り、弁当屋の仕事を始めました。毎日が地道で泥くさい日々でしたが、“真面目に働くってこういうことか”と、あの時改めて感じた気がします。その弁当屋で知り合った人から「おまえ、不動産業向いてるんちゃう?」と、ある不動産会社を勧められたんです。リース業と同じくグレーなイメージを持っていた不動産業界に最初はあまり乗り気ではなかったんですが、面接に行ってみたところなんと採用。そこから不動産の世界に入ることになりました。入った会社は、土地を持っているオーナーさんに建物を建ててもらい、それを管理し、また次の建物を建ててもらう──そんな会社でした。私の配属先は仲介部。物件の管理や集金、時には取り立てなんかも担当していました。最初は右も左もわからなかったけれど、仕事をしていくうちに「不動産業っておもしろいな」「奥が深いな」と感じるようになっていったんです。そして、不動産は“モノを扱う仕事”じゃなく、人の暮らしそのものに関わる仕事なんや!と気付きました。当時の不動産業界はまだ中古物件がほとんど売れず、新築物件が強い時代。でも、あえて誰もやらない中古に挑戦しました。夜中までチラシを配って、一軒一軒お客さんに声をかける。あの頃はがむしゃらに働いていましたが、今振り返るとここでの経験が自分の不動産人生の基礎を作ってくれたと思います。24歳の時に初めて「自分の力で売った」と思えたときの感動は今でも覚えています。仕事に追い込まれた20代、ノイローゼ寸前の苦悩昭和63年の夏くらいから、企業の間で「社宅が欲しい」という声が一気に増えてきました。そこから、いわゆるバブルの波が始まったんです。社宅を建てたいという相談を受けては提案し、しばらくすると今度はその社宅を売ってほしいという依頼まで来るようになりました。仕事の回転がとにかく早かったですね。両手仲介(売主・買主の両方を担当する取引)の仕事も増え、今まで全然動かなかった物件まで売れるようになって、当時はかなり稼げました。しかしバブルが崩壊して、業界は一気に冷え込みました。取引先が倒れたり、仲間を失ったり。でも、自分は実需の仕事をメインにしていたおかげで、なんとか細々とやっていけたんです。経験を積んで自信もついてきたので、「次はフルコミッションで、自分の実力で稼ぎたい」と思って会社を辞めました。ところが、会社を辞めて3か月ほど経ったころ、元いた会社から「戻ってこないか」と声をかけられました。そこで再び関わることになり、自分が代表として会社を立ち上げることになったんです。仲介や管理、家賃回収などを手がける会社でしたが、今思えば、あれは“やらされたようなもの”だったかもしれません。事務所を構え、社員も入れてスタートしたものの、重い固定費とは裏腹に反響は減る一方。「このままでは続かない」と感じながらも、何とか仕組みを整え、会社を支える日々が続きましたが、次第に経営が厳しくなっていき、精神的にも追い込まれてノイローゼになりかけていました。27、28歳のころでしたが、あの時期は本当に苦しかったですね。西宮での再出発。時代の波に乗った成功とチームの解散会社を辞めたあと、二か月くらいは家族とのんびり過ごしました。そこから心機一転、大阪市内を離れて西宮にある不動産会社に入社しました。そこでの仕事にも慣れてきた矢先、阪神淡路大震災が起こったんです。あの瞬間は本当に衝撃でした。街が混乱して仕事どころではなかったし、「この先、給料はどうなるんやろ」と不安も大きかったです。震災のあと、仲間内で解体業を2年ほどやりました。復旧・復興事業の需要もあり、新会社設立の資金ができ、ある不動産仲介FCに加盟することを決めたんです。周りの仲間をフルコミッションで雇い、スタッフを従業員として迎え、自分たちのチームとして再スタートを切りました。ちょうどその頃、世の中はインターネットの時代に突入。ネットに物件を載せるだけで売れるようになり、自分の中で過去最高額である5億円のマンションを販売することもできました。最初のうちは順調にいっていたものの、次第に金回りが苦しくなり、気づけば仲間も少しずつ離れていって、残ったのは事務ひとり、営業ひとり、そして私の三人だけ。「まあ、このメンバーでも何とかなるやろ」と思っていましたが、現実はそう甘くなかったですね。ネットに載せるだけで売れていた時代から一転して、問い合わせがピタッと止まったんです。経費もジワジワと効いてきて、気づけば息が上がるような状態に。「もうここでいったん区切りをつけよう」と思い、会社を辞めました。自分の中で、ひとつの時代が終わった瞬間だったと思います。業界の外に門戸を開く、RE/MAXモデルへの共感平成27年ごろ兵庫県庁から「空き家対策」と「居住支援」に取り組んでほしいと依頼を受け、「空き家相談センター」の立ち上げに関わりました。最初は、正直あまりピンと来ませんでしたが、現場に出てみて衝撃を受けました。高齢者、障がいのある方、外国人…。“住みたくても、家が借りられない人たち”がこんなに多いのか、と。そこから、空き家を活用して人の暮らしを支える仕事に本気で取り組むようになりました。行政・司法・福祉の関係機関と連携し、ご相談に対応していく・・・この仕事を通じて、不動産の本当の役割が見えてきた気がします。そんな中で知り合いから「おもろい仕組みがあるらしいで」と言われてRE/MAXの存在を知ることに。半信半疑で本社に話を聞きに行き、一般の人でも不動産業にチャレンジできるビジネスモデルである点に非常に魅力を感じました。私自身も前から、業界の外にいる人がもっと自由に関われる世界があっても良いと思っていましたからね。「これ、うまくやったら新しい可能性があるな」と感じ、加盟を決めました。加盟時は「自分ならできる!」と思って始めたんですが、今まで自社で採用したことのない、様々な属性のエージェントを採用・マネジメントするのはなかなか思うようにいかず・・・。そんな時に本部から紹介してもらったのが、RE/MAX L-Styleの大西オーナーでした。初めての出会いのとき、男気じゃんけんで勝って支払いをすることになったのですが、財布がない(笑)。落としたか盗まれたか、どっちかもわからない。困って「大西さん、お金ちょっと借りてもいいですか?」と言ったら、「全然いいよ!」と笑顔で言ってくれたんです。さらにその帰り、大西さんがポケットからくしゃくしゃの一万円札を出してきて、「タクシー代、持っとき」と渡してくれたんです。そのとき「RE/MAXにはこんな素敵な人がいるんか」と、心が動きました。「こんな人たちと一緒にやっていきたい」「ここに残りたい」と。そこから考え方が変わって、エージェントとの向き合い方も少しずつ変わっていきました。「人の繋がり」こそが最大の強み、感謝と優しさで築く組織オフィスオーナー同士が繋がって、お互いを支え合える関係がRE/MAXの一番の強みだと私は思います。仕事のことだけでなく、人として付き合える関係を築けるのも居心地が良いです。今では、エージェントさんたちに対しても感謝の気持ちを持って、優しく寄り添うことの大切さを感じるようになりました。自分の人生が終わるまでこのメンバーと一緒に歩いていくこと、そして、今からこの業界に挑戦する人たちが、自分の経験を活かして“不動産業で食べていける仕組み”を作ることが私の次の目標です。体力が続く限り、みんなと協力して全国にこの仕組みを広めたい。シンボルである気球のように、RE/MAXの旗を全国に飛ばしたいなと思っています。最後になりましたが、RE/MAXのオーナーという働き方は私の性に合っていると心から思います。それは私がRE/MAXのエージェントを最高の働き方だと思えているからです。実際に私自身もこれまでエージェントのようなスタイルで売り上げを上げてこられたので、エージェントさんたちも同じように結果を出せるようになってほしい。そんな想いで、今では私の得意分野となった「空き家対策」や「居住支援」のノウハウをエージェントさんに伝えていっています。今ではお陰様で所属エージェントも20名を超え、オフィスに活気がでてきました。とはいえ夢はまだ続いていて、次のステップとして四国に出店したいと考えていますし、近い将来には地元の吹田市にもオフィスが出せたら最高です!!RE/MAXの気球を、もっと高く、もっと遠くへ飛ばしたい──そんな気持ちで今も走り続けています。